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ジャスミンの花飾り [歴史・伝説]

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 五月半ば近くになると、街角でふと強い花の香りを感じることがあります。

 辺りを見回すと、思いの外遠くにある建物の、フェンスや生垣に絡み付いて咲いている、白い花がその香りの元であることに気が付きます。

 写真のこの花は、ジャスミンの一種で、ハゴロモジャスミンと呼ばれる、園芸品種です。

 この強烈なまでの香りを持つ花を、僕は庭に植えようとは思いませんが、この時期街中でこの花を見掛けると、何時も思い出す物語があります。

 それは、日本ではあまり読まれることのない、古い仏教の経典に記された、こんな物語です。

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藤崎の藤 [歴史・伝説]

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 いつもの、家の近くの公園、習志野市・藤崎森林公園の池の畔に咲いた藤の花です。

 池の畔の木々の樹冠に、かなり広範囲に咲いていて、かなり見事なものなのですが、写真は部分的に撮ったものを載せています。
 尚、どの写真も、クリックをすると、拡大します。

 

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五位の鷺 <平家物語より> [歴史・伝説]

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    ゴイサギ  五位鷺   コウノトリ目 サギ科

 
 水辺で、餌を探すゴイサギです。この写真を撮ったのは、五月のことでした。
 これまでは、家の近くでは、ゴイサギを見ることは稀でしたが、これ以来頻繁に見掛けるようになりました。

 前の記事のように、森林公園の池を訪れることもありますが、大抵は近くの休耕田で餌を探しています。

 以下、前の記事に書き切れなかった、五位鷺の名前の由来に就いて、少しばかり書いてみたいと思います。

 「五位鷺」の名は、古代日本の律令制の導入に伴って定められた、貴族や役人の官位や官職に由来するものと言われます。

 「官位」及び「官職」の内容に就いては、時代による変遷もあって、かなり複雑なものなので省略しますが、取り敢えずは、「一位」から「五位」が貴族の位とされ、朝廷に仕える役人などには、その下の「六位」から「八位」そして「初位」までの位が与えられていました。更に、各位に「正」と「従」の段階(「初位」のみ大・小)があります。
 五位鷺の名は、その官位によるものらしいのですが、その典拠に関しては、「平家物語」にその由来らしきものが記された一節があります。
 巻(かん)第五 にある、 朝敵揃(ちょうてきぞろえ)の段がそれに当たります。

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西行忌 [歴史・伝説]

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    身を捨つる人はまことに捨つるかは

         捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

                         読人しらず

                    詞花和歌集 巻10(雑下)題しらず

 平安時代後期、崇徳(すとく)上皇の院宣(いんぜん)によって編纂された、勅撰和歌集の一つである「詞花和歌集(しかわかしゅう)」に、「読み人知らず」として載せられているこの歌は、院(上皇)の御所を守る「北面の武士」であった、兵衛尉(ひょうえのじょう)佐藤義清(さとうのりきよ)の詠んだものです。
 この歌集が編まれた頃には、義清は既に出家をして、「西行法師」となっていましたが、この歌を
詠んだ時期は出家前で、兵衛尉という低い官位であったため、読み人知らずとされたのだといいます。

  身を捨てる(出家をする)ということは、御仏の救いを求めてのことであるから、
  本当に身を捨てるということではない。
  しかし、身を捨てようとしない人は、御仏の救いを求めていないのであるから、
  出家しない人こそ、我が身をすてようとしているのではないであろうか。

 それは、佐藤義清が出家をして僧となる思いを、表明した歌のようです。

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タグ: 西行

火事の記録 ~明暦の大火~ [歴史・伝説]

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  1月17日は、17年前に、阪神淡路大震災が起こった日でした。
  TVのニュースでも、過去の震災の記憶を風化させない為の取り組みや、イベントが取り上げられていました。

 そして、続く1月18日は、今から355年前に、江戸時代最大の火事が起こった日です。
 その火事に就いて、僕はこのブログに 
「振袖火事」由来 と言う記事を、2006年の1月18日と19日に亘って書いたことがあります。

 明暦3年(1657年)1月18日から19日に掛けて起こったその火事は、歴史の上では、「明暦の大火」と呼ばれますが、俗称では「振袖火事」とも名付けられています。

 尤も、1月18日というその日付は、当時の太陰暦によるものですから、現在の太陽暦とは時期的に些かの違いはあります。
 因みに、今年(2012年)の新暦と旧暦の換算では、旧歴1月18日は、新暦の2月9日に相当します。

          *尚、今回の記事に載せた写真は、記事の内容とは全く関係ありません。

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お茶の花・子犬・京都の古寺 [歴史・伝説]

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   チャ  茶   ツバキ科   ツバキ属

庭の片隅に植えられた、小さなお茶の木に、可憐な白い花が咲いています。

お茶の花は、とても小さいのですが、椿の仲間なので、その花は椿や山茶花にもよく似ています。

お茶の花を見ていたら、この花から連想する様々な人やものが、心に浮かんで来ました。
その内にやがて、家にいる子犬のことを、不意に思い出しました。

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青鷺のいた水辺 [歴史・伝説]

 

  アオサギ  青鷺  コウノトリ目  サギ科

いつもの、カルガモのいる公園の池です。

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白い梅・紅い梅 [歴史・伝説]

           東風(こち) 吹かば にほひ() こせよ梅花(むめのはな)

                            (あるじ)なしとて春を忘るな
      
                                              菅原 道真

                                                 拾遺和歌集 巻16(雑春)1006

今から1,100年ほども昔の平安時代の政治家で、文人でもあった菅原道真の歌です。

学問に優れていた道真は、天皇の信任も厚く、その家柄からは思いもかけないほどの立身出世をして、右大臣の要職に就きました。
その為、道真を妬む者も多く、当時の左大臣であった、藤原時平の中傷によって、九州の大宰府へ左遷されてしまいます。

道真は、梅の花を深く愛しており、その邸宅は「紅梅殿(こうばいどの)」と呼ばれていました。
都からは遥かに遠い、大宰府へと旅立つ時、「紅梅殿」の梅に別れを告げ、前に挙げた歌を詠んだといいます。

あるいはまた、大宰府へ単身赴任をした道真が、京の邸宅に残して来た梅の花を思って詠んだ歌だという説もあります。

 

 

歌に詠まれた梅の花は道真を慕って、京の都から大宰府へと、一夜の内に飛んで来たという伝説があります。
これは「飛梅伝説(とびうめでんせつ)」と呼ばれ、その飛梅の子孫と伝えられる木が、今も「大宰府天満宮」に植えられているそうです。

僕は、九州へは一度も行った事がなく、当然「太宰府天満宮」へも参拝したことはありません。
ですから、その飛梅の実物も見たことはないのですが、毎年春になると、テレビで「飛梅」の花が咲いたというニュースを見ます。

テレビや写真で見る限り、その飛梅の木には、白い花が咲くようです。

 

けれど、僕が以前展覧会で見た古い絵巻物の、道真が愛する梅の花に別れを告げるシーンには、紅い梅の花が描かれていた記憶があるのですが・・・。

また、飛梅伝説を題材にした能に、「老松(おいまつ)」という曲があります。

京都の北野天満宮を信仰する男が、夢に大宰府を訪ねなさいという神託を得て九州を訪れ、「飛梅」の在り処を一人の老人に訊ねました。
問われた老人は、自分たちは飛梅とは呼ばずに「紅梅殿(こうばいどの)」と呼んで崇めていると答えます。
実は、この老人は飛梅とともに飛んで来た、年老いた松の精霊でした。

この能には、さしたる物語もなく、ただ道真の経歴や飛梅や老松の来歴を語り、平和な世の中を讃えるという作品です。
この能には、古くは「紅梅殿」と呼ばれる若い女性の姿をした梅の精霊も登場したのではないかと考えられているようですが、現在は梅の精は登場しません。
ただ、特殊な演出の際に天女が登場することがあり、それが当時の名残であるとも言われています。

この「紅梅殿」という呼び名からすると、伝説の中の飛梅は「紅い梅」であったという言い伝えも、あるということかも知れません。

まあ、どちらにしても伝説なのですから、「白い梅」でも「紅い梅」でも、然程こだわる必要もないのでしょうが・・・。

 

ちなみに、最初に挙げた歌ですが、最後の第五句目が、以下のように歌われる場合もあります。

 

         東風(こち) 吹かば にほひ() こせよ梅花(むめのはな)

                             (あるじ)なしとて春な忘れそ
      
                                              菅原 道真

 


ミゾソバと新選組 [歴史・伝説]

      ミゾソバ 溝蕎麦 タデ科 タデ属

ミゾソバは、別名を「ウシノヒタイ」とも呼ばれるタデ科の多年草で、田圃の周辺や川辺などの湿った土地に群生します。

とても可憐な花ですが、花びらに見える部分はガク裂片です。

この可愛い花と、幕末の京都の町を暴れ回った新選組と、一体どんな係わりがあるのかと、今回のタイトルを見て訝しく思われたかも知れません。

 

実際には、この花と係わりがあるのは、新選組の中でも「鬼の副長」と恐れられた土方歳三です。

歳三は少年時代、土方家に代々伝わるという「石田散薬(いしださんやく)」という薬の行商をしていたという逸話が残っています。

石田散薬は、打ち身や骨折に効くとされていた粉末の飲み薬で、服用する際には水ではなく酒で飲むことになっていたそうです。

 

この石田散薬の原材料は、「牛額草(ぎゅうがくそう)」という植物だと言われています。

「牛額草」とは、葉の形が牛の顔に似ているために付けられた名で、「牛の額(ウシノヒタイ)」とも呼ばれています。つまり、「ミゾソバ」が「石田散薬」の原材料だと言うわけです。

但し、原料になるのは秋に咲くこの可憐な花ではなく、真夏の土用に刈り取られた葉や茎だったそうです。
土用の暑い時期に、多くの人手を頼んで刈り取りが行われた際、少年であった歳三は雇われた人々に的確な指示を出し、見事に監督を勤めたという逸話も残っています。

また、後に京都で新選組が旗揚げをしてからは、石田散薬は新選組の常備薬とされたと言います。

 

そんな「石田散薬」ですが、昭和二十三年に薬事法が改正になり、こうした民間薬の効能の見直しが行われた際、謳われているような効能はないということが分かり、以後販売は中止となりました。ただ、毒にもならないので、どうしても欲しいと言う人には、分けてもいいということではあったようです。

僕は、石田散薬に就いては、かなり以前から知ってはいましたが、「ミゾソバ」が原料だったことは国文学者の管 宗次さんの書かれた「俳遊の人・土方歳三」という本で初めて知りました。
もしかしたら、「牛額草」というさも漢方薬に使えそうな別名に騙されていたのかも知れません…。

ところで、この草は非常に生命力が強く、先日写真を撮りに行った折、茎の中ほどで折り取った花を持ち帰り、一輪挿しに挿しておいたところ、いつの間にか茎の下の方から根が生えだしていました。

そんな生命力の強さから、昔の人は薬効があるのではと考えたのかも知れない・・・。ふと、そんな気もしました。

 

ちなみに、二枚目の画像は数年前に売られていた、フルタ製菓の食玩フィギュアです。
デザインの元になっているのは、土方歳三資料館所蔵の、函館で撮影されたとされている洋装の写真です。

また、背後に誠の旗を配したのは僕の遊びです<m(_ _)m>。
この時期の歳三は、函館新政府の陸軍奉行並の役職にあり、既に新選組の副長ではありませんでした。

しかし、司馬遼太郎氏の小説「燃えよ剣」では、土方歳三はその最期に「新選組副長と名乗って死んだ」ということになっています。
また、この小説を原作とした栗塚 旭さん主演のテレビドラマでは、新選組で下男として働いていた人が命懸けで届けて来た「誠の旗」を身体に巻き付けて、最期の決戦に臨むという筋立てになっていました。

勿論、どちらも完全な作り話ですが、あの小説とドラマには、それが真実であるような迫力がありました。

 

俳遊の人・土方歳三 句と詩歌が語る新選組 PHP新書

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  • 作者: 管 宗次
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2003/12/16
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「振袖火事」由来 後編 [歴史・伝説]

それは、明暦の大火のあった年から遡ること三年前、承応(しょうおう)三年(1654年)の出来事である。
上野の紙商大増屋の一人娘で十六歳の きのは、母親と連れ立って、菩提寺である本郷丸山の本妙寺へ墓参に出かけた。

その帰り道での事。
向こうから歩いてくる一人の少年の姿が、不意にきのの目に止まった。
恐らくは寺小姓であろうか、まだ前髪を伸ばした、元服前の十五・六といった年恰好の美少年である。
少年を一目見たとたん、きのの視界からは、周囲のすべてが消え去った。ただ、少年の端正な面差しと、身に纏った紫縮緬の振袖だけが、その瞳の奥に焼き付けられてしまったのであった。

家へ帰ったきのは、母親にねだって、紫縮緬の振袖をで誂えて貰う。
だが、きのはそれを身に着けるわけではなく、枕に振袖を着せて、夫婦遊びをしては、あの時の美少年の姿を思い起こして溜息を吐くばかりであった。

やがて、名も知らぬ少年への恋慕のあまり、きのはやつれ果てて、床に就くようになってしまった。
心配した両親はきのを問い詰め、漸くにして事の次第を知り、娘可愛さのあまりに手を尽くして、少年の所在を捜し求めた。だが、どこを訪ねても、少年の行方は知れなかった。

そして、翌年の承応四年一月十六日、焦がれ続けた件の少年に再び出会うこともなく、きのは短い生涯を終えたのである。
享年十七歳、余りにも早過ぎる死ではあった。

きのの葬儀は、菩提寺の本妙寺で、しめやかに執り行われた。
その棺の上には、きのが最期まで手放さなかった、あの紫縮緬の振袖が掛けられていた。

この年の四月、年号は明暦と改められる。

そして、月日は流れて、翌年の明暦二年。
きのの一周忌に菩提寺を訪れた両親は、そこで営まれていた本郷の麹屋の娘、いく の葬儀に出会う。

驚いた事に、その場に置かれた棺の上には、きのの持っていたものとそっくりな、紫縮緬の振袖が掛けられていたのである。
聞いて見れば、いくもまた十七歳で亡くなっていた。棺に掛けた振袖は、いくが古着屋で見つけて大事にしていた物だと言う。

そして、それは正しく きのが所持していた、あの振袖なのであった。

当時の寺では、葬儀などで寺に収められた物は、三十五日の法要が明ければ売り払ってしまうのが習慣であったという。つまり、江戸のどこかにあの振袖があったとしても、何の不思議もないということなのである。

だが、それで話は終わりではなかった。

更に翌年。
明暦三年一月十六日、それぞれの娘の法要の為に、寺を訪れたきのといくの両親がそこに見たものは、またしても十七歳の娘の葬儀であった。しかも、棺の上にはまた、あの紫縮緬の振袖が掛けられていたのである。

今度死んだのは、麻布の質屋伊勢屋の娘 梅野であった。
振袖は、店で質流れとなった物を、梅野がねだって貰ったものだという。

事ここに至って、亡くなった三人の娘の親たちは、この紫縮緬の振袖の持つ言い知れぬ因縁を思わない訳には行かなくなっていた。

親たちは互いに相談して、本妙寺の住職に事の次第を話し、振袖の供養を願い出た。

あまりの事に驚いた住職は、供養の日を一月十八日と定め、三組の親たちの立会いの下に、読経を行い、件の振袖を火中に投じた。

その時である。突然吹き起った一陣の風が、火のついた振袖を空中高く舞い上げた。
あたかも、見えない何者かがそれを着ているような姿で、振袖は一瞬天空に留まり、四方へと火の粉を撒き散らして、忽ちに燃え尽きたのである。

しかし、飛び散った火の粉は、そこかしこに燃え上がり、瞬く間にあたり一面を火の海に変えて行った。居合わせた人々は、ただ火の手から逃れるのが精一杯で、まったく手の施しようもないままに、寺は焼け落ちて行った。

無論、前夜から吹き募る烈風の中、炎は本妙寺を焼き尽くすだけで収まる筈もない。忽ちに周辺にも飛び火し、乾燥しきっていた建物はひとたまりも無く焼け落ちて行った。

これが、江戸の大半を灰燼に帰し、十万人もの焼死者を出したと言われる、江戸時代最大の火事である明暦の大火が、「振袖火事」と呼ばれるようになった由縁である。

くどいようですが、これは史実とは言い難い物語で、この話が流布し始めたのは、大火の後相当な年月を過ぎた頃と思われますが、実際のところ何時からなのかはよく解っていません。
後には、講談にもなっているそうですが、残念ながら僕は聞いたことはありません。

この話に登場する娘の名前には、種々異動があり、親の商売もそれぞれの本などによって一致してはいません。
他のところで、この話を読んだり聞かれたりされた方もいらっしゃると思いますが、恐らく内容にはある程度の差異があると思います。
僕も、下に挙げた参考文献を元に物語を纏めましたが、どの話にも多少の異同が見られます。
これは、初めから口承によって伝えられて来た話ですから、避けられない差異とお考え頂ければ幸いです。

この火事では、十万人以上の人命が失われましたが、あまりにも多人数の為、身元不明者も多く、幕府は隅田川の東岸に当たる本所牛島新田に、無縁者の埋葬地を用意しています。
ここに、被災した死者の供養の為に『回向院(えこういん)』が建立(こんりゅう)されました。

『回向院』は、正式には『諸宗山 無縁寺 回向院』という名で、基本的には浄土宗の寺院ですが、宗派にかかわりなく参詣出来るようにと、『諸宗山』の山号が付けられたということです。

この『回向院』は、現在大相撲初場所が開かれている国技館に程近い、両国の地に今も残されています。

ここには、江戸時代の戯作者として有名な、「山東京伝(さんとうきょうでん)」と弟「京山(きょうざん)」の墓や、義賊といわれている「鼠小僧次郎吉」の墓など、江戸時代の有名人の墓が、幾つも建てられています。

この『回向院』に就いては、また機会があれば記事にしたいと思います。
また、明暦の大火で焼け落ちてしまった、江戸城の天守閣に就いても、幾つかの興味深い逸話が残されていますので、それに就いてもいつか書いて見たいと思っています。

何時になく、長い文章にお付き合い頂きまして、ありがとうございました。

尚、文中の絵は、江戸時代に発行された『東都歳時記』という年中行事を紹介した木版本から採ったもので、明暦の大火とは関係ありません。

参考文献
 徳川実記 第四篇 厳有院殿御実記   国史大系所収 吉川弘文館
 むさしあぶみ  日本随筆大成 第三期   第六巻所収 吉川弘文館 
 新版 江戸から東京へ(一) 矢田挿雲     中公文庫版 中央公論社 
 江戸三百年(一)天下の町人 西山松之助・芳賀登編  講談社現代新書
 明暦の大火      黒木 喬                               講談社現代新書
  *講談社現代新書の二冊に就いては、どちらも昭和50年頃の出版の為
    現在は、絶版となっているようです。


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